プライドのもとは何だろう

しつけ 2013.04.06 Saturday msophia

 以前から不思議に思っていたことだが、なぜ日本人の母親、祖母は小さい子供に向かって公衆の面前で「可愛い」と連呼するのだろうか?その言葉はただの気休め?心底そう思って?自分が心地よくなるため?子供におべっかをつかって?彼女たちはその言葉が将来の子供の育ちぶりにとても大きな影響を与えることを考えたことがあるのだろうか?多分自然に「可愛い」という言葉がでるのだろう。

 言う側からすれば子供は可愛いのだからそういうだけのことだろうが、言われた子供のほうもはどういった心理的な影響が及ぶのだろうか。子供は「。。。ちゃんは可愛いね」と大好きな母、祖母に言われると「得意になるし、心地よくなる」。従って、その心地よさを求めようとして、同じように「可愛い」言われる努力を始める。人間は快楽を求める動物だから、そうなるのだろう。

 「。。。ちゃんは可愛いね」と言われた子供は、そう言われて脳内に「快楽ホルモン」が出て、「自分は可愛い」と自覚して、喜ぶのだが、さらに「。。。ちゃんは可愛いね」と言われたいことをしようとする。そのあげくには  「。。。ちゃんは可愛いね」と言われない限り、母親、祖母を喜ばせる行動をしなくなる。ひいては、他人とのかかわりにおいても「心地よいほめられ方をされない限り」他人を満足させる努力をしなくなるのではないだろうか。


 私は心理学者でもないから、このあたりの難しい分析はわからないが、自己体験を通して判断するとだいたい当たっていると思う。男親は概して「可愛い」という言葉を発する相手は「好きな女性」への決め言葉という認識があるから、わが子には「可愛い」と思っていてもむやみに言わないだろう。


 問題は女性である。女性が「心地よいもの」を愛でる傾向を強くもつのは女性の「本能」だと認めてよいし、それを否定する必要もない。心地よいものを求める女性が、世の男性に安らぎを与え、社会全体に潤いを与えているのも、事実である。最近女性の社会への進出は目覚ましいものがあるが、そのおかげで殺伐とした男性オンリーの職場も心地よくなったものである。

 
 しかしながら、他者を心地よくすることができる女性のこの能力を子供に濫用すると、まずい影響がでるのではないかというのが、私の言いたいことである。日本では女性に愛情を過剰に受けすぎた「過剰愛情保有ペット」、王様気分のペット気分の動物がたくさんいる。この種のペットは果ては飼い主に従わなくなるのだろう。犬はまだよい、人間ではないから、社会で生きていくこともないし。可愛がられすぎても犬の世界で生きていくだけだから。


 私の父親はむやみに「子供に可愛い」というべきでないという確信をもっていたようだ。私自身、母親が私に「可愛い」といったときに「子供に向かって可愛いなどと言っていると、この子はできそこなうぞ」言った言葉を耳にしたことがある。以来、私は父親の危惧していた通りできそこなったわけである。子供時代の私は、母親、二人の姉たちに可愛がられていた子供だったようだから、余計に父親は私の行く末を心配していたのだろう。私は常に女性に恵まれていたのである。大学入学の後は、東京の叔母に可愛がられたし、私は今もよく可愛がっていただいたと感謝している。

 私みたいに、身近な所にいる女性達から愛情を頂いた人物は、他人様から厳しく不快なことを言われたり、された経験がないだけに、妙にプライドが高く、自分の考えかたや、自分そのものを大事にしすぎるきらいがある。自分が可愛がられている事実を実感できず感謝もしないし、結局は自分の考え方が間違っているのも、気がつかない。したがって、勉学の世界では他人に教えを請うという謙虚な態度がとれない。こうなると、最終目的である自己発見に極めて長い時間をかけることになる。ストレートに自己発見への道にのりたいものだ。


 凡人は「自分が可愛い」のである。自分が傷つくのはいやだから、なるべく傷つかないように行動する。しかし、そういう感情が元となり、自己保身的、消極的行動、ひいては、内向的な性格、生活態度、勉強形態を形成しかねない。私たちの中学時代の教師達はよく生徒を殴ったものだった。一度見て驚いたのは、技術の先生が「悪ガキ」を金づちを手に持ち、廊下を走り、追いかけていた光景を目にしたことがあった。教師の暴力が日常的だったその当時、私も中3年時に、クラスのまとめ役を怠ったという理由で板張りに正座をさせられてほっぺたを1っ発だけ殴られたことがあった。私は殴られたことで非常にプライドが傷つき、教師を許すことができなかった。叱られた理由も大したことではなかっただけに、私の内面ではぐくまれていた自尊心や確信が余計に大きくなり、以来、教師と口をきかなくなった覚えがある。先生も若くてまだ切れる年だったろうと今では思えるが、当時の私は教師を許せなかった。


プライドとは、いい意味では「自尊心=selfesteem」悪い意味では「傲慢、横着=arrogance」英語ではselfrespectともいう。日本語の「誇り」に相当する。これらの精神志向は私たちの行動思考に大きい影響を与える。世の中には「拝金主義者」がいるが、彼らは頭の中が「お金」がらみのことでいっぱいで「プライドもない」だろうか。いや、彼らもまた「相当のプライドを持つ」人物である。拝金主義者は「常にお金があることがプライド」そのものであり、お金儲けができなくなるのは、かれにとっては「死に等しい」屈辱である。だから、拝金主義に一層邁進するということである。拝金主義も言葉を換えれば、一つの精神主義である。「泥棒にも一理あり」というのも、裏を返せば「泥棒にも泥棒としての自尊心」がありうることを肯定しているのではないか。豊臣秀吉に捕まり、窯でゆでられ殺された大泥棒の石川五右衛門もプライドを持って、秀吉の政治に反逆した「確信犯的精神主義者」だったかもしれない。


話をもとに戻すが、私は教師に殴られたあと、教師と疎遠になり、40年以上の歳月が経過し、先だって同窓会で教師に会ったのである。私にはやはりまだまだ違和感は残っていた。親にさえ殴られたことがなかった私が今でもわだかまりがあるのは、私がよほどに個人として「自尊心」が強かったせいもあろうか。家系の血に流れる自尊心の強さもあるだろう。父、兄、祖父、曽祖父は「負けん気が強かった」点で共通項がある。「悪いことはしない」「お金は求めるのでなく、実力があればついてくる」「ぐずぐず言わない」「毎日が真剣をもろ手で握り占めて生きると思え」とか、父には随分と言われた。父にほめられたのは「人生で2回」のみだった。


私のような「可愛がられた男の子」が社会で生き残れてきたのは、大学入学後の勉強のおかげだと思う。心を改め謙虚に勉学にいそしんだのが、よかったのである。大学生が入学したら、3年後の就活を心配する暇があるならば、勉強すればいいものをと思う。昨今東大出身の社長は激減している。今朝の新聞の人事異動欄でも、東大出身の社長は22人中に、2人のみだった。かといって受勉強をしても何もならないという結論にはならない。時代の急激な変化に対応できない程度の低レベル東大OBが増加しただけのことだ。しっかり勉学をして書物を読み、有意義な社交を重ねれば必ず身を結ぶ。大学の授業はでずとも、自己の勉学を怠らない。授業だけでてA判定を並べて、自己学習はしないから、会社の面接担当に「知識の軽薄さをからかわれて、あげくは、切れてしまう」、そして不採用。すぐに、自身喪失するなんて、携帯マニュアルレベルの行動形態である。極めて恥ずべきことだ。


 高校時代までは、まだ守ってくれるものがあるからいいが、社会にでると何があるかわからない。高い偏差値を持った受験生ほど、その偏差値が特権の如く、大学でも通用すると思うのは妄想である。偏差値が高いほど、それに見合う一層の努力をしないと、高校時代の「自尊心」が傷つくことになる。偏差値評価が通用するのは高校までの世界までである。世の中では、思うようにいかないことばかりが、毎日のように自分に挑戦してくる。学生時代とは全く異別な世界に入ることを恐怖に思う若者が多いのは、このあたりに原因があるのではないだろうか。子育ては、物事に積極的に取り組む姿勢を培う、一方自尊心を植え付ける。適度に、自尊心も傷つくがよい。


 より恵まれた人達の一部に、今の恵まれた地位、環境、経歴が崩壊するのではないかという、不安を強く持つ人達がいるようだ。積みあげてきたものは壊したくないだろうが、壊れることもあるという、「諦観」をこの人達は持てないのだろう。失うことを怖がるばかりではいけない。何かをするには、失うことも必然的におこるのだ。凡人ほどプライドが高いのかもしれない。日本人は禅という「諦観」を教える宗教があるだけに活用したいものだ。英語でも、The more you get, the more you want. 「手に入るもの多ければ、一層ほしくなる」Happiness consists in selfcontentment.「足るを知る、程々の満足」 という言葉がある。また、Mothers teach their children how to
speak lnaguage absentmindedly, while fathers guide children in elevated matters when their children
progress enoough to speak language which they can make themselve understood. 子供が親に大切にされ始めたのは20世紀になってからのことだけに、子育てマニュアルは親が自分で探し求めるしかないだろう。昔は、西洋、日本を問わず、子供は愛情の対象ではなく、労働賃金を稼いだり、厄介者として里子にだされたり、大名の息子は両親から離され家来の一人が育成したりと愛に飢えた歴史を歩んできたのである。

  

 


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